前を向いて歩いていこう

前を向いて歩いて行こうのタイトル
〜〜 目 次 〜〜
 は じ め に
□ 1 話  発 病
□ 2 話  転 院
□ 3 話  急 変 
 4 話  退 院 
□ 5 話  光 明 
□ 6 話  告 知 
□ 7 話  驚 き
□ 8 話  再 び  完結

〜〜 前を向いて歩いて行こう 〜〜

「ありがとう」と素直に言える人。 一所懸命前向きに頑張っている人。 人にやさしく出来る人。
そんな、人に読んで貰いたくて書きました。

平成16年3月

〜〜 はじめに 〜〜

みなさんこんにちは。ようこそ前を向いて歩いて行こう

これから、話すことは、父と私(娘です)の2年半に渡り体験した実話です。父は、私にこの2年半の間に色々なことを身をもって教えてくれました。「生きるとということ」、「一生懸命前向きに頑張ること」、「あきらめないこと」、「人にやさしくすること」などなど本当に数えられないほど教えてもらいました。

私は、父が病気になるまでは、頑張っても成果が出ない人をバカにしていました。それなら何もしないほうがいいとさえ思っていました。「いいかげんに、適当に面白かったらいいじゃない」と言って生きてきました。そんな私の生活を変えるきっかけを作ってくれたのが皮肉にも父の病気でした。父には悪いのですが、今思うと父が病気になってくれたことに感謝しなくてはならないかもしれません。

父は末期癌でした。

「末期癌」という言葉は誰が作ったのでしょうか。本当に嫌な言葉です。身内で末期癌と言われた人でなければ解らないと思いますが、完全に駄目と言われているようです。皆さん、良く考えてみてください。末期か末期でないかの基準は病院によって異なると思います。通常一つの病院で「末期癌です」と言われてしまうと、今まで病気などほとんど縁のなかった人間にとっては、全ての病院から末期癌と言われている様な気になってしまいます。私の様な考え方をする人は多いのではないでしょうか。

セカンドオピニオンという言葉を最近良く耳にしますが、日本には馴染んでいません。病院を一度変えると、元の病院に戻りづらいし、戻れないと思っている人は多いのではないでしょか。私も、今お世話になっている病院に父が入院するまでは、その様に思っていたというより思い込んでいました。

色々な人に支えられながら、父も2年半の闘病生活を経て一歩、一歩、完治に近づいています。決して油断は出来ませんが、今ゆっくりとした時の中で過ごせることを幸せに感じています。

今、父と同じような病気で苦しんでいる人やその家族の人、頑張っている人、とにかく前を向いて一生懸命に生きている人に読んで欲しくて書くことにしました。

1話 発 病

平成13年5月この時から、父と私の長く険しい闘病生活が始まりました。

当ホームページの主である父は当時67歳、頑固一徹な職人で気に入らないお客には口も聞かづといった今では数が少なくなってしまいましたが頑固親父そのものの人です。

この日私が家に帰るとお店は閉まっていて誰もいませんでした。 お店の営業形態が、年中無休で用事のある時だけ閉めているので普段誰もいないことが殆どなく、お店が閉まっていること自体がとても不思議だったことを覚えています。お店に入ってすぐに母からの電話があり、父が病院に入院することになったのですぐに来て欲しいという事でした。病院の名前を聞いてびっくりしてしまいました。近所でも有名な評判の良くない病院だったのです。

父が、病院に行くきっかけは親戚のおばさんから病院に行くように朝から電話で説得されやっと行く気になったらしいのです。これも母がおばさんに頼んで説得して貰っての事でした。このおばさんには本当に感謝しています。自分も余り体の調子が良くないのに、いつもいつも父のことを心配してくれています。そしておばさんの説得で、銭湯で体を清めて病院に行ったらしいのです。

なぜこの病院に行ったか後で聞いてみると、数日後の組合の旅行に行きたくこの病院なら薬をくれるだろうと思って行ったと言っていました。この時の信じられないような動機に呆れてしまっいました。父親の入院することになった病室に行ってみると、いたずらをした子供がバレテしまって恥ずかしいという様な顔で笑っていました。あの時の父の顔は、一生忘れないと思います。

その日、1時間近く待っていると先生からの話あると母と私が診察室に案内されました。まだ詳しい検査をしていないので解らないが、問診の結果ではほぼ100%悪性の直腸癌でり、癌のある場所が悪く切除することは難しいであろうという話でした。この時の先生(以下H先生)は、後で知ったのですが、都内の大きな病院(T病院)の先生でH先生はこの後に転院したT病院で父を庇ってくれた唯一の先生でした。多分T先生がいなかったら父の今はなったと思います。本当に感謝しています。

1週間後検査の結果、やはり直腸癌に間違えがないという診断が出ました。何度も転院を考えたのですが、T病院から教授の先生が診えて手術して頂けることになり転院することが出来ませんでした。手術で癌を切除してもらえるのではと期待しましたが、術後のH先生の説明では、「今回の手術では癌に近づくことが出来ず今後の生活のための手術になりました。」という説明でした。今後普通に生活できるまでは体力は回復しするでしょうという話でした。父はバイクに乗るのが好きなので「バイクが乗れるようになりますか」とH先生に聞いてみると、バイクを乗れる位まで良くなるがあと1年でしょうという話でした。

私はこの時、もう涙が止まらず一人で泣いてしまいました。なぜなら、父が切除不能の癌であるとこの時理解出来たのは、多分私だけだったからです。母や兄も理解できなかったのですから、立ち会ってくれた父の友人や父の兄弟がH先生の話を理解できなかったのも当たり前だったと今は思います。

このページのトップに戻る

2話 転 院

手術日の翌日、病院から呼び出しの電話が家に掛かって来ました。「何分で来られますか?」という先生から問いに緊急な事だと思い「30分以内には伺います。」と答え20分で母と二人で病院に向いました。すると、呼び出した若い先生はランチに出ていていませんでした。父の様子を病室に見に行くとぐっすり寝ているので少し安心し、1時間以上待っていると若い先生はランチから帰って来ました。

先生の話は、自分は今日でこの病院から違う病院に移るので明日から別の先生になると別の先生の紹介の為に呼びだされたものでした。余りに酷いと思いまいした。父の病状が急変したのではと思い心配して駆けつけたのに「そんなことで呼び出すな!!」と心の中で叫び、怒っていました。

次の日もまた、病院から呼び出しの電話があり、今度は何の用かと思い私が一人で行ってみると医局でH先生が待っていました。 H先生は多分週に2回ぐらいはこの病院に診えているらしく父の術後の状態が良くなくないのを心配してくれていました。 H先生の話では、このままではいつかもう一度手術をやり直さなければならなくなるという説明で、用心の為に先手を打って手術しようという話でした。H先生は、「T病院の教授がもう一度この病院に来て手術することは時間的に不可能なので、教授の所に行きもう一度教授に手術してもらおう」という話でした。急遽母を病院に呼び、救急車でT病院に行くこととなりました。

救急車で約40分近くかかりT病院に着くと、私はすっかり車酔いをしてしまっていました。 T病院の病室はいっぱいなので、救命センターに入院させてもらうことになりました。手術はその日の内に救命センター内で行われました。そして、次の日には元の病院に帰るという事になっていました。 この時、この救命センター看護婦さんと、父ははかなりもめていました。看護婦さんは、手術するので父に、爪を切るようにいうと父は仕事が出来なくなるからと拒否。この後も結局爪は切ることはありませんでした。なんとも頑固な父なので、私もこのときは説得することが出来ませんでした。

手術の翌日に本当に元の病院に返そうとするので、せめて傷口が良くなるまでは置いて欲しいと頼んでいました。救命センターなので面会時間は短く、1日1回18時〜の30分だけだでした。私は殆ど毎日3時位から救命センターの前の待合所に行きせめて誠意だけでも解ってもらおうとしていました。その時、救命センターの前の待合所で教授に話し掛けられ、「明日には元の病院に戻す」と毎日の様にいわれいました。毎日あと1日置いてくださいと何度もお願いしていました。H先生も教授の先生に父を庇って何度も頼んでいてくれていた様でした。

T病院に入院してから何日かが過ぎて、私は自分の力ではどうにもならなくなってしまい知り合いの人に相談するとその人が助けてくれました。それが教授の逆鱗に触れてしまったようです。

いつもの様に面会時間が来たので救命センターに入って行くと、父は頬がこけげっそりしていました。私は、「どうしたの?」と聞くと、いつも弱音を吐かない父なのに「お腹が痛い」というのです。H先生がみえたので話を聞いてみると、「さっき教授が来てお腹をグリグリ押してたからそれでかな〜それでかな〜」おっしゃいました。私は耳を疑いました。私は何度もH先生に「父の状態がおかしいです」と話していると父は、もう痛くなくなったから言わなくていいと強がっていました。

そのあとH先生から話があり、「ご家族のたっての希望ですから明日からT病院の一般病室に移します」と嫌味っぽかったのですが話していただきました。ちょっと父の病状が心配でしたし、H先生にもはかなり後ろめたかったですが、これで父が少しでも快適な入院生活が出来るとホッとしていました。

このページのトップに戻る

3話 急変

次の日(7月7日は兄の誕生日でした)に、T病院から突然正午ごろ自宅に電話が掛かって来ました。わたしは、仕事に出ていましたので母から仕事場に連絡があり、母の話によると病院から「昨日の夜中から熱が上がり病状が急変し、急遽夕方から手術することになったので来て欲しい」ということでした。

3時ごろに母と2人で病院に駆けつける、もうすでに手術は始まっていました。兄も仕事を途中で抜けて来てくれて、三人で待合室で待っていると、4時間近くに及んだ手術は終わりとりあえず成功したとの事でしたが、何が成功したのか、何がどうなったのかこの時は良く解りませんでした。とにかく命が助かったという事だけが解りました。

手術後に、手術にして頂いた助教授の先生からの説明がありました。(なぜか教授ではありませんでした。)今までの手術は、頼んだわけでもないのに教授が手術をしていたのに何故?と思いましたが、今はここの病院に助けてもらうしか道がなく、何も言う事はできませんでした。多分あの時は怖くて何もいえなかったのだと思います。それから、何週間も教授の先生とお会いすることはありませんでした。

この頃は、私も自分のやったことが父親を死の一歩手前まで追い詰めてしまい自分をかなり攻めていました。
助教授の先生の話では、「腹膜炎を起こし破裂し、癌が肺まで飛ん行った」という事で、「体の中を綺麗にしたので心配ない」といってくれました。H先生も手術に立ち会ってくれた様でした。この時はさすがに、あとどれだけ生きられるかということは聞くことは出来ませんでした。心配ないとは何が心配ないのかも良く解りませんでした。

父は、手術室から救命センターの部屋へ戻って行き、父は救命センター内で一番の重病患者になっていました。

その日から5日間昏睡状態が続き、H先生の話では、父の状態では目覚めさせるとかなり痛いのでわざと麻酔を打ち続けているといっていました。そして5日が経ち「今日目覚めなかったら喉を切開することになるだろう」といわれなんだか凄く矛盾した話でしたが、この時の私は一生懸命でその矛盾すら気づきませんでした。父はこの5日間は、父は体に10本の点滴をつけて寝ていましたが、寝顔はとても穏やかでした。この時何度となく親戚のおばさんが父を心配して病院に来てくれました。普段はほとんどお付き合いがなかったのに、本当に何度も来て私を励ましてくれました。私はいつも一人で強がって病院に行っていましたので、この一番辛かったときにおばさんが来てくれたことを今でも感謝しています。おばさんは私に「私の兄だから来るのよ」と話してくれたことがありまた。そしておばさんは、ほとんど外食しない人なのに一緒に帰るとご飯をご馳走してくれたり、電話で私の話を聞いてくれたりと、支えてくれた人だと今でも感謝しています。父は本当にいい人たちに囲まれて生きてきたのだということが、この時初めて解ったような気がしました。

手術から5日後、父が漸く目覚めた時父は完全にボケていて凄くショックでした。父が目覚めた日に、H先生は30分の面会時間中ずっと父のベットの側にいて、周りに他の看護婦さんや他の先生がいなくなった時に「本当にここにいられて良かったね。本当に良かった。」と何度も言ってくれました。
それからは、1日1日点滴の数も減って行きましたが、相変わらず父のボケは治りませんでした。天井に虫が這っているから始まり、看護婦さんが物をとったといい、もうすでに死んでしまっている人が見舞いに来てくれたといっていました。もしかすると、死んでしまった人は本当に来てくれたのかも知れません。きっと、「もっと良い行いをしてからこっちへ来い」と追い返してくれたのかも知れません。父の友人の話では、父は「一度さんずの川を渡ったが、友達が手を差し伸べてもらって戻って来た」といっていたそうです。

そして数日過ぎて父の手術の傷も癒えて来た頃、救命センターの若い先生から、明日元の病院に移すと話がありました。 私は、もう抵抗せずに流れに任せることにしました。
転院する日になると、突然、H先生から「明日、T病院の一般病棟に父を移します」という話がありました。H先生からは「一般病棟に行くと、自分は担当から外れるので診れなくなるがその方がいいでしょう」と言って頂きました。これで、また少しT病院にいられることとなりました。病室に移ると、不思議なことに、父のボケは治っていました。一過性のものだったようです。

この病室の看護婦さんには本当に良くして頂きました。今でも、母と良くT病院の看護婦さんには本当にお世話になったという話にになります。「この病院は上が悪い。あんなに大きな病院で、いい先生や看護婦さんが沢山いるのに本当に上が悪い。」と私は今でも思っています。

父も歩行訓練をするまでに回復した頃、初めて教授の先生を廊下で見かけました。どうしようか迷いましたが、自分から近づいて行きました。15分位立ち話をしたと思います。教授の先生からは「お父さんは我慢しすぎたから、あそこまで酷くなったんだ」と言われました。

そして、教授の先生は、今後の治療方針を詳しく話してくれました。それを、病棟の先生に話してみると、何も聞いていないとい言われその先生からは父は治療は無理だろうと言われました。教授の先生の気まぐれだったのかも知れません。後は、どの先生に話を聞いても「一日でも長くおもての良い空気を吸わせてあげたほうがいい」とばかり言われていました。そして、このT病院でも、元の病院でも沢山検査をしましたが、一度もレントゲン写真などを見せてもらうことはありませんでした。

私は、このT病院から最寄の駅までの約5分の道が今でも忘れられません。「悔しくて、悔しくて、悲しくて、悲しくて、何故?何故?」といつも思って歩いていました。2年半も経った今でも同じ気持ちでいます。こんな気持ちを吹っ切るためにこの「前を向いて歩いて行こう」を書いたのだと思います。これを書くと迷惑のかかる人がいるかも知れません。でも、真実です。私は、父の話をここに置いて自分の道に進んでいきたいので書きました。そして、最後まで書いていこうと思います。

このページのトップに戻る

4話 退院

8月15日突然退院が決まる。


突然の退院で家で父を迎える準備が出来ていないため、最初に入院した近くの病院に父を何日か置いてもらうことになりました。その時T病院の看護婦さんからは、他の病院に行っても父の病状は変わることはないから一日も早く自宅に連れて帰った方が良いとアドバイスを頂いたのですが、そのT病院の看護婦さんのアドバイスが「本当だ」私はその後で実感することになりました。

退院の日、母は余り体調が良くないということもあり私一人で父を迎えに行くことにしました。前にも話した親戚のおばさんが手伝ってくれると言うのを丁重に断ったのですが、この親戚のおばさんは断ったにも関わらず私のお昼まで買って病院に来てくれました。この時私はかなり意地を張っていましたので人の暖かさがとても嬉しかったです。今思うと私は、自分のせいで父の病気が悪くなってしまったと本気で思い込んでいたようで、何でも自分一人でやらなくてはと考えていました。

退院の手続きは思った以上に大変でした。ほとんど歩くことも出来ない父を連れて退院の手続きをし、荷物を沢山持って病院の外に出るまでに私は疲れていました。この時、おばさんがいなかったら自分ひとりでは出来なかっただろうと思い本当に感謝しています。父は、救急車ではなくタクシーで帰りたいとわがままをいうので、3人でタクシーに乗って自宅の近くの病院に向いました。この時父の体はタクシーに耐えられる体ではなかったので、かなり体に辛く、こたえたことと思います。

自宅近くの病院に着くと、病院の婦長さんの判断で、父は脳外科の病棟に入れられたしまいました。父の直腸癌から出てくる体液の悪臭が酷く一般病棟には入れてもらえませんでした。父は一度T病院でおかしくなっていますので、先生と交渉してすぐに近くの病院から退院させてしまった。私は仕事を抜けられませんでしたので、退院の交渉を母に頼むと母はT病院から来ていた先生にかなり嫌味をいわれたらしいのですが入院の翌日に退院の許可が出ました。退院の条件は後で聞いたのですが、CTとMRIの検査をすることだったそうです。結局2日間の入院で退院したのですが、退院する日の5時過ぎにCTとMRIを撮る結果となってしまいかえって父の体には負担をかけてしまったようです。素朴な疑問なのですが、あんなに沢山検査した物は何に使うのでしょうか。本当に一度もレントゲン写真等を見せてもらったことがなく、今でも疑問です。

退院の時、父は病院から家に歩いて帰ると言ってききませんでした。通常歩いて10分の道のりを約1時間かけて帰ってきました。私はこの時、父が車にでも飛び込むのではないかと心配でしたが、歩いて帰ってきたかった理由はタバコを買いたかったからだ解ったとき呆れてしまいました。タバコはそんなに良いものなのか、吸わない私には解りませんが、母と父のタバコ止めろ戦争はこの頃から始まった様です。父は決してタバコを辞められませんが、今では母の前では殆どタバコは吸わなくなりました。

父が退院してからの何日か、家の中は本当に大変でした。 父には、腸が悪いとしか言っていませんでしたから、自分が癌であることは知らず、いつか治るものと信じていたようです。癌からでる体液を体の上に上がらないようにするためにお尻に直径4センチ程度のステント(実は一度も見たことがないので良く解らないのですが)を癌に絡ませてお尻から体液を出していましたので、座ることも余り出来ず寝ているのも辛そうでした。父は辛くても辛抱強いので、父の口からほとんど辛いと聞いたことはありませんでしたが、このステントはかなり辛かったことと思います。それこそつけたものしか解らない辛さだったことと思います。このお尻から出てくる体液が悪臭で、家の中にはいつも芳香剤を何個も置き私はスプレー缶を持って歩いていました。

この間に私は、父に残された時間を快適に過ごして欲しく色々な所に相談に行きました。
まずは、介護保険で本当の寝たきりになった時の事を考えて、ベットを借りましたが、これがちょっと変な話でした。ベットのレンタル料ですが、同じ物を介護保険の認定が下りるまでは、区から貸りられて月500円なのに対し、介護保険の認定が下りると月1,700円になるというのです。不思議でした。
今後のことを考えて相談に乗ってくれる介護保険のヘルパーさんを頼むことにしました。身の回りの世話はしてもらう必要がないので、病気の相談に乗ってもらえそうと言うことで、元看護婦さんがヘルパーさんをしているところに頼むことにしましたが、これがかなり酷いところでした。相談どころか、父が少づつ元気になって行くのをがっかりしているようにさえ見えました。元看護婦さんには、病気を治すの相談にはほとんど乗ってもらうことは出来ず、ホスピスの話ばかりされいたように思います。

区役所にも何度となく足を運びましたが、これも同様で酷いものでした。 色々な申請を出して言われたことは、「どうせ使う機会は殆どないんだから出さなくてもいいんじゃない」そんな言葉でした。私は逆に無機になって出せる申請は全て出していました。それが、今でもかなり役立っています。 また別の窓口で父の病気を治したいから病院を紹介して欲しいと頼むと、介護保険のヘルパーさん同様にホスピスに一度でも行っていないと入れて貰えないから行ったほうが良いと言われて、がっかりしていました。日本には病気を治したいと思っている人の相談に本気で乗ってく所はないとまで思っていました。私は、最後まで諦めたくないのに結局誰も頼りには出来ないんだと本気でこの時思っていました。父が退院してからの何日間が、今考えても一番辛くどうして良いか解らず、母と2人で父が寝た後話をしていました。多分このときの心労が母の体を少しづつ蝕んでしまった様です。私がもう少し母を気遣ってあげられていらたと、今は少し後悔しています。

このページのトップに戻る

5話 光明

9月になりました。

9月1日になると父は思いもかけない事を言い始めたのです。
「9月になったから仕事をする」と言うのです。「なったから…」この言葉が胸に詰まりました。確かに注文は沢山ありました。でも、お客様は「親父さんが良くなってからでいいよ」と皆言ってくれていました。本当にありがたいことです。

9月1日の朝から、本当に仕事を始めました。言ったら聞かない父なので私は何も言わず黙っていました。 お尻にステントを入れているため、座ることが出来ず、横座りしながら一週間裁断をしていました。 この時、父は良く「働いていた方が夜良く眠れる」といっていました。 そして1週間後、ミシンを始めたのです。自分身を削って仕事をしている姿はとても痛々しかったですが、本当に凄い人だと思った瞬間でもありました。

最初に仕立てた股腹は実は私が働いている仕事場の上司の人の物で、父は一度も私に「ありがとう」と言った事がないのですが、この時、父の心の中から「ありごとう」と聞こえた様な気がしました。 この上司の人も多分それをわかってくれているようで、お祭りに着る物を病人が作るもの嫌だったと思うのですが、お祭りの日に父と、母を捜して着ている姿を見せてくれたそうです。とてもぴったりだ喜んでくれたそうです。今でも、その時の話を母がしています。この上司の人は本当にありがたかったです。

別の人から、後日聞いた話ですが、お祭りの日に「親父さんお神輿担いでいたよ」と言われた時は本当にビックリしました。呆れてしまって怒ることも出来ませんでしたが、「もっと、自分の体は大切にして欲しい」とやはり後日になって叱りました。まったっく子供なので困ってしまいます。でも、今思うとこの子供のところが、病気が治るきっかけにつながったのだと思います。

子供の父ですから、良く外に出かけたがって困りました。さすがに一人で出かけるわけには行かないので、私がいつもお供をしていました。私が仕事休みの時は、生地を仕入れに行きたい、商品を仕入れに行きたい、親戚に家に行きたいと、よく言われて大変でした。生地を仕入れるたびに、こんなに仕入れても使えなくなるから仕入れないで欲しいと思うほど仕入れていました。その時の生地はほとんど、お客様のもとへ届いています。本当に凄い父です。なぜ、こんなにヨボヨボになっても外に出たがるのか、仕事をしたがるのかその元気さが今につながっているのでしょう。

私は、この何度となく行われて外出の中で、ある体験をしました。それは、自分にとっても大変、心の痛いものでした。皆さんも、きっと私と同じように心の痛い思いをする時があると思います。なぜなら、人は、いつか病気になったり、人と違った生き方をしなくてはならない時がくる可能性があるからです。その時に反省するより、今反省して心の大きな人間になれたらと思います。なかなかなれないことですが。

それは、親戚の家に向かう都電の中のことでした。父の体からは前に書いたように癌から出る体液があり、大変に臭かったのです。スプレーを持たせたり、色々として気遣っていましたが、やはり限界がある様で、都電に乗って2人で座っていると、高校生の女の子たちが、臭いと言って、逃げて行きました。私も学生の時、同じことをおじさんに対してしていました。まさか、病気で臭い人がいるなんて体験しないと判らないのでしていましたが、相手を大変に傷つけるということを父の病気をを通して知ることが出来ました。父は、知らん顔していましたが、かなり傷ついていたことと思います。私は、父の病気のおかげで色々なことを気がつける人間に生まれ変わったと思っています。たまに博愛主義者と言われてしまうこともありますが。。。

そして、毎日の暮らしの中で、私は一つの「言葉」と、1つの「テレビ番組」に出会いました。

「言葉」とは知人からの「このままだったら、死んで行くの待っているだけじゃない」という一言でした。母も周りの親戚の人もかなりこの言葉に怒っていましたが、私は、怒るというより、「本当だ!!今は平和だけど、同じことを繰り返し、いつか死んでいくんだ何とかしなくては」と本気で思うきっかけを作ってくれたようです。

同時に衝撃的なテレビ番組を見ました。仕事場でお昼のニュースを見ようをテレビをつけると、時間がまだ早くその番組はやっていました。私が耳に残っているフレーズは「大腸癌に画期的な治療方法が出来ました。それはPMC療法です。」と言うものでした。頭なのかは、大腸癌画期的PMC療法この3つの言葉がぐるぐると駆け巡っていました。

仕事を終えて家に帰ると、すぐにインターネットで、PMC療法とキーワードを入れ検索してみると三重大学病院第二外科という言葉が9割以上を占めていたのです。これが、父と私の三重大学病院第二外科との運命的な出会いでした。

その三重大学第二外科のHPに行ってみると目を疑いました。もの凄い衝撃が私の体の中を駆け巡りHPを何時間も見ていた様な気がします。そして衝動的なメールでしたが、三重大学第二外科にメールを出す勇気をこのHPは与えてくれたようです。 次の日は仕事だたので、メールの返事を見ることが出来ず、どうしてもメールの返事が1分でも早く知りたく仕事場から思い切って病院に電話をしてみました。すると今は手術中なので手術が終わったら折り返し連絡をくれるという事でした。本当に数時間後に、病院の先生から電話が掛かっていました。

三重大学第二外科の 先生には父は切除不能の直腸癌で、他の臓器には転移はまだしていない。という話をしたと思います。先生は、「東京でもPMC療法は出来るので、主治医の先生と話をしてくださる」といってくれました。私は、「父には主治医の先生はいません」「父を三重まで連れて行くので、外来で一度でもいいから診て欲しい」「本当にもう治療の余地がないのか見てほしい」「東京の病院を紹介して欲しい」多分こんなことを頼んだのだと思います。

すると先生は、「遠方の患者さんはベットが空き次第連絡することにしていますが、どうしますか?」といってくださいました。私は、まさか、地位も名誉もお金もない私たち一般人が他県の病院に入院させていただけるとは思ってもいませんでした。私は「是非お願いします」と自然といっていました。そして数日後、本当に三重大学第二外科の先生から電話があり、入院の日時が決まりました。

ただ入院には条件がありそれは、「本人に告知すること」「前にいた病院の紹介状を貰ってくること」でした。

このページのトップに戻る

6話 告知

私は、迷いました。すごく迷いました。初めて父のことを治療を目的に診てくれるという病院が見つかったのです。しかも、無条件で診てくださるというのです。しかし、、三重県です。そして、本人に病気の告知をしなければならない。

三重大学第二外科のホームページは凄いことが書いてありました。「〜だったら、こんな治療方法。〜だったら、こういう治療方法。〜だったら、こういう治療方法」幾通りもの治療方法が記載されていました。あれを見ているともしかすると父は治るのではないかとまで思えるほど私にはインパクトがありました。多分、直感のような物だったのだと思います。

私は、なんでも、飛びつくのは早いのですが、飛びついてから「どうしよう」と考えるほうで、私が、父を病院に連れて行く責任者の様でしたので、病院の先生からの電話では、即答で「ぜひお願いします。」と頼んでおきながら、後で一人で悩んでいました。すると、それを見ていた母が、「駄目でもいいから連れて行ってあげて」と言って背中を押してくれました。そして、兄が「自分が告知するから、心配するな」といってくれました。私は、一人で父の面倒を看ていると思っていましたが、家族は4人なんだ。と思った瞬間でした。

兄が告知のために仕事を休んで来てくれ継ぎのことを話してくれました。、
「癌であること」 「すぐにどうにかなる訳ではないが今行っている病院では治療することは難しいと言われている事」 「診て貰える病院を見つけたが、三重県で遠いこと」
さすがに病院ではもう治らない手遅れと言われていることは隠して父に話してくれました。私だったらありのままを正直に話していたと思います。嘘も時によっては人を救うことがあるのだとこの時感心しました。でもやはり、私には嘘は付けそうもないので、兄が告知してくれて本当に良かったと思います。

父はこの日から3日位、ボート一人で誰とも話もせずに考え込んでいました。父は泣く事も、わめく事も、私たちに当たる事もなく、ただ、ひたすら考え込んでいました。ですが、その間も父は決して仕事を休むことはありませんでした。職人魂とでも言いましょうか、でも今考えると仕事をしていることが父の唯一の逃げ場だったのかもしれません。

そして数日後、父は「三重しかないのか」と話しかけて来ました。私たち家族は、東京の大きな本当に大きな病院なのですがこの病院で「手遅れです。末期です。」と言われた患者です。しかもお金持ちでない患者を喜んで診てくれる病院は東京にはないと思い込んでいました。本当はもっと探せば東京にも診てくれる病院あったかも知れません。でも父を東京の病院に連れて行くのが怖かったのです。もう一度、東京の大きな病院で「手遅れです。治療の余地はありません」と言われたら、もう、何の気力も起きないのではないかと思うほどでした。

私は、父に言いました。「お伊勢参りに行こう」と。お伊勢参りの途中で病院に寄って診てもらって、東京の病院を紹介してもらえばいいよと。父は、旅行が大好きなので、旅行に行ける方を選んだのです。父は私たち家族のことを気遣って選んだ振りをしていただけだと思います。父はとても頭のいい人間なので、きっと自分の病気のことは告知する前から判っていたと思うのです。ただ、認めたくなかっただけだと思うのです。この時、自分の命が終わることも自覚していたからこそ、あんなに仕事にのめり込んでいたのだと私は思うのです。

決断から、実行までの時間はあっという間に過ぎました。まず、クリアーしなければいけない最大の問題は、前の病院からの紹介状を貰う事でした。どうやって何のわだかまりもなく貰って来れるかを考えていました。病院がすんなり、三重の病院に行くから紹介状を出して欲しいと頼んで貰えそうもないので、ホスピスに移るので紹介状を欲しいと頼みました。菓子折りを持って一番若い先生に頼みにT大学病院にいきました。これが私がした最初で最後の付け届けになりました。

T大学病院の診察室に入ると、「検査しましょう。」といわれ唖然としてしまいました。他の病院に転移を希望している患者に検査?必要ないじゃないですか。そして、一番唖然としたことは、薬でした。今までは、大学病院の先生が近くの病院にいらしているので、そこで診ていただいていたため薬の内容を知らなかったのですが、化膿止めと胃薬だったのです。癌を治す為や癌の進行を抑える為の薬などの治療は一切していただけなかったと言うことが、この時はっきりとわかりました。でもこれが父にとって、大変にラッキーなことでした。なぜなら、三重大学病院第二外科で、的確の治療をする余地がたくさん残されていたからです。

そして、入院の日が来ました。私は、新幹線で連れて行く予定にしていたのですが、兄がレンタカーを借りて来て一緒に連れて行ってくれるといってくれました。私は強がっていますが、本当は心細く兄がついて来て貰って本当に嬉しかったです。
夜中の3時ごろに家を出て朝には病院に着く予定でした。初めて行く病院なので私はかなり神経質に時間を気にしているのですが、兄や父は、ドライブインで朝食を食べようと言い出たりして、病院へは予定の時間より少し遅く到着となりました。父のなるべく遅く着きたい気持ちはわかるのですが、兄のいつものマイペースには、私の兄に切れる材料の一因になっています。

病院に着くと私たち3人はびっくりしました。なぜかと言うともの凄く大きな病院だったのです。後で知ったのですが、国立の大学病院でした。この病院は、病院の前で交通事故があっても救急車で運ばれることのない病院という話を入院している患者さんから聞いてまたまたびっくりしました。この病院のポリシーというのでしょうか、本当に病院を必要としている人を平等に診たいと言うことの様です。これも後から知ったことでした。今思うと、私たち家族は宝くじに当たったのかもしれません。

外科外来で私と看護婦さんが話をしているのを聞いていた父はびっくりしていました。それは、入院の話だったからです。父には入院の話はしていませんでした。「病院でちょっと見て貰って、お伊勢参りして、ホテルに泊まって帰ろう」と話していました。私は、確信犯でした。どうせ連れて行ってしまえば、どうにかなる。と、本気で思っていて、1週間くらい前から父が寝るとこっそり荷造りをして、長期入院に備えていました。

この日も、こんな一言で父を誤魔化していました。「どうせ、ホテルに泊まるとお金がかかるから今日は、ここで泊めて貰って、明日迎えに来るよ。」と、父を無理やり入院させてしまいました。この一言で、父は2ヶ月以上もの前向きな長期入院となりました。

このページのトップに戻る

7話 驚き

入院日の11時位に病室に通された私たち3人は病室の汚さに驚きました。別にごみがあるとか、不衛生とかではなく、汚いのです。壁に新聞紙で目張りがしてあったりしていました。そして次に驚いたのが、父親に昼食が出て来たことでした。なんて凄いんだろうと思いましたが、本当に驚いたことは他にあり、先生方の患者さんに対する態度が本当に凄かったのです。

何が凄いかと言うと、先生がいつ見えるか判らないので病室で父と二人で待っていると、先生がいらっしゃいました。といっても、6人部屋なので私たちのところではなく、他の患者さんの所にいらっしゃった先生でした。。その先生の口から出る話が、まさにカルチャーショックのようでした。こんな感じです。「今回は、ここの癌をとったから、次回に入院する時はここの癌を治療しましょう。」と言っているんです。自分の病状を聞く前に同室のお5人分の病状を聞くことになりました。これが三重大学病院第二外科では、日常茶飯事のように行われていました。この病院が「患者さんに告知をしてきてください」と言った意味だったのです。

その日の午後、看護婦さんには伝言で明日の朝とりあえず東京に帰るので、今日中に出来れば先生と話したいとお願いすると、先生が時間を作ってくださいました。この時の話は今でもはっきり覚えています。私は先生に今までの経緯を詳細に話しました。大学病院の教授を怒らせておなかを押されて腹膜炎になってしまったことなどなどを。。。

すると先生は、こんな風に話してくださいました。「上田さん。お父さんは、今でも、いつ腹膜炎になってもおかしくない状態です。もしこの病院でも腹膜炎になったら、緊急手術します。ご了承ください。」こんな感じでした。(すみません、三重弁良くわからないので、内容はこうだったという感じです。)これを聞いた瞬間にこの先生は信じられると思いました。私の思っていた通り、ホームページの通りの病院だと確信したのです。

そして先生の診察の結果は私たち家族を勇気付けてもらえるものでした。先生は「お父さんにはまだ、治療の余地があり、末期癌ではなく、癌が進行しすぎてしまっただけなので治療して癌が小さくなった時、手術のタイミングが1回か2回巡って来るのでそれを逃さないように手術しましょう」「手術は難しい手術になるので、教授がします」と言ってくださいました。先生は続けて「自分たちも頑張りますから、上田さんも頑張ってください。自分たちだけが頑張っても病気は治りません」とこんな感じでした。
そして、父が病気になってから、初めてレントゲンを見せていただきました。見ても良くわかりませんでしたが、安心して預けられる病院ということだけは良くわかりました。

父もこの病院に入って少しづつ変わりました。父の心が救われたのは、三重弁はとても心地いいのです。私も父もちゃきちゃきの江戸っ子です。私などは、物をはっきり言うのが当たり前で暮らして来ました。一番の感動は、看護婦さんの「ありがとぉ〜う」です。この「ありがとぉ〜う」は、本当に心地がいいのです。点滴がなくなりかけて看護婦さんを呼ぶと、看護婦さんは、呼んでくれて「ありがとぉ〜う」と言います。この「ありがとぉ〜う」に何度父は救われたことか判りません。この病院に入院して無償の愛を感じました。
わたしは父には悪いのですが、父が病気になったおかげで、今まで触れたことのない人や物、感じたことのなかった事を感じられる様になりました。本当にこの「ありがとぉ〜う」は人の心を和ませる魔法のように思いました。

私と兄は父を三重に連れて行った夜は当然の事ながら旅費の節約のために、2人で車で寝ることにしました。兄にはぐずぐず言われましたが、経済を握っていたのは私なので、車があるならそこで寝る当たり前のことと言っていました。しかし兄には帰りに逆襲されてしまいました。兄にせっかく来たんだから温泉に入りたいと言われ、「温泉を探し」も〜プチ切れ状態での帰宅となりました。

この2ヶ月以上の入院で、父は色々な治療をしました。はじめは出来ないといっていた放射線治療も30回弱行い、抗がん剤治療もほとんど、副作用もなく行うことが出来き12月に初旬に一度退院して2月再入院することになりました。退院に当たって、問題がひとつありました。

東京でも、週に一度抗がん剤治療をしなくてはなりませんでしたが、これが問題で、先生から3つの病院のリストアップしていただいて選んだのが、都立広尾病院でしたが、退院をして広尾病院に三重大学病院の紹介状を持ってに診察に病院に行ってみると、広尾病院の先生には「外来でこんな事(抗がん剤を打つなんて)出来るわけがないではないか」と言われてしまいまた。そして「もう、以前に行った東京の大きな病院にはいらっしゃらないのですか?」とたずねられたので、わたしは「行きません。」ときっぱり答えました。広尾病院の先生からはとりあえず検査だけはしましょうと言っていただき、MRIなどの検査の日程をとってくださいました。

父は嫌がりました。私も本音は嫌でした。父は、治療してくれる病院が見つかるまで三重に新幹線で通うといっていました。でも、紹介状を書いていただいた三重の病院の先生の手前もあるので「検査だけはして」と私は、父には頼んでいました。そしてこのことを三重大学病院第二外科の主治医の先生に相談すると、先生は一番最初に手違いがあったと謝ってくださいました。先生が非を認めて誤ってくださった事がとてもうれしかったです。これが病院の原点なのではないかと思いました。

三重大学の主治医の先生と父との信頼関係は、きっと私が思っているよりも大きいものなのだとこの時感じました。あんなに頑固な父も検査だけは行くと言ってくれて、検査は受けたのです。、結局次の外来には、治療をやってくれない所には行かないと言って行きませんでしたが。。。

次の外来へは、私一人で行くことにしました。そして、診察室に入ると、先生は「あれ?お父さんは?」というのです。今日から、治療するつもりでいたのに。。。といってくださったのです。私は、先生に嘘を付いてしまいました。「父は風邪気味なので、置いてきましたと。」先生は、それなら来週からやりましょうとおっしゃっていただき、この先生には今でも東京にいるときのお世話になっています。先生、あの時すみませんでした。いつも、父を見ていただきまして、感謝しています。特別の治療を受けていただきありがとうございました。

このページのトップに戻る

8話 再び

この年のお正月は、静かに過ぎました。過ぎたというより、過ごしたというほうが正解かもしれません。去年のお正月のことを考えていました。去年のお正月は、家族で千葉の兄の会社の寮に行きましたが、その時父の様子はかなり変でした。私は父が病気であることをこの時直感で感じていて母に「多分もう長くないよ」と言っていました。私は父には病院に行くように説得はしていましたが、この当時の父は私の言うことなどほとんど聞かず、私も父には興味も関心もありませんでしたので、深く話をしませんでした。この時もっと私が興味と関心をもっていれば父の病気も今とは変わったものになっていたかもしれません。

お正月も終わり、再入院の日が決まりました。三重大学病院の先生は、父の病状を心配して東京まで電話をかけてきてくださいました。最近では、父の病状も落ち着いているので、メールでの連絡になりましたが、この頃先生は30分以上電話で私に病状を説明をしてくださいました。こうした事が、先生と私たち家族のつながりといいますか、絆といいますか、信頼関係が出来上がったのだと思います。

何度目かの付き添いで三重に伺った時に、大学病院のエレベーターの前で主治医の先生にお会いしたことがありました。私は、そんなに伺うことが出来ないので、なるべく先生への質問は簡潔にストレートに伺うように心がけていました。

先生へは、「いつになったら手術できますか?」という質問を会うたびにしていました。エレベーターの前でも、同じことを伺うと先生は「娘さんは、手術したら全てが終わると思っているでしょ。」と言われてしました。私は、「でも、先生、手術しなかったら始まらないじゃないですか」と答えていました。これが、私の本音です。周りのみんなは、よく頑張るね。と言いますが、違うのです。やり始めたことをきちんと終わらせないと気持ち悪いのです。だから、興味や関心がなくて見てなかったときは気にもならかかったのですが。本当はひどい娘です。

やり始めたことを仕方なくやっていたのではなく、目の前にやらなくてはいけないことがあったので、それを楽しんでやっていたとでもいうのでしょうか、今思うとそうだったのだと思います。ただその中でも一つどうしてもやりたくないことがありました。

それは、これから話す三重へ2回目の入院の時の話です。この話は周りの人にも話したことがありありませんでした。それは、2回目の入院が決まったのですが、父が乗り気でないのです。冗談で、「じゃあ!旅行に行って帰りに病院寄ろう」かって言ったんです。。すると本当に父は、バスツアーの旅行を予約してしまいました。冗談だったのに。。。

父と2人で、お伊勢参りツアーに行くことになりました。2で人です。凄く、目立つのです。病気でがりがりにやせてしまって、ほとんど荷物を持つことも出来ない父と、その父をかばってばかりいる私。おせっかいなおばさんからは、「親子?なの?いいわね〜」「うらやましいわ〜」などと言われ。良い訳もなく、もう恥ずかしくって大変でした。
夕飯の時に前に座った若い女性の2人組に「気持ち悪い」とまで言われて、朝食も同じ席で、「げ!!最悪」とまで言われてしまいました。こっちの方がもっと最悪でした。この件以来、父とは二度と2人で旅行に行きたくなくなりました。なんで、こんな目にあうのだろう〜口は災いの元です。

こんな、嫌な経験もしましたが、父の治療はかなりの成果を見せていました。3月中旬に主治医の先生から一度三重に来て欲しいと連絡を頂ました。事前の話では、手術が出来る環境が整いつつあるので、話をしましょうとの事でした。

病院に伺うと、父は「手術は嫌だと」言うのです。耳を疑ってしまいまた。手術をして完治に近づくために三重まで連れて来たのに嫌だと言われて時は、先生の前で私は切れてしまいました。先生は、「手術しても、癌が全て取れる可能性は少ないかもしれないが、少なくなった癌を抗がん剤で叩こう」とう言うお話でした。父の癌は、大きくなった分、人より抗がん剤の効きが良く、約6ヶ月の治療で、癌が半分近くまで縮小していました。

私は先生に父の前で、

「今、父が手術を嫌だといっているのですが、きっと今嫌なものはいつになっていも嫌なのでもういいです。」


といっていました。
兄からも父がどうしても嫌だといったら父の前で先生に「あとどれくらい父の寿命があるのか」聞いて欲しい頼まれてきていました。さすがにそれを言うのをためらっていたら、先生が察してくださって、「今の抗がん剤は、2年位が限界」だと言う話でをしてくださいました。そして、印象的だったのが、先生は、「上田さんが、今手術しなくて以後手術できなくなったとしても、私たちは上田さんを見捨てません」といってくださったのです。
こんなに父のことを考えてくださっている先生が手術しようと言っているのに「嫌だ」とてもいえないと私は思って話していると、父は最期には「手術します。」といったのですが無理やり言わせたような感じで後で後悔が残ることを察してくださった主治医の先生から「2人とも頭を冷やして家に帰って家族でゆっくり話してきてください」といわれてしまいました。

私はプリプリしていたのですが、一週間父は家に帰れるのでるんるんしていました。父は家に帰ると、3日位仕事をしていました。そして一日は、親戚や友人を集めて花見をしました。みんなに励まされて勇気を貰って手術する気になったようです。

病院に戻って、父が主治医の先生に発した第一声が私は感動的でした。「手術お願いします。」「ただいま」、でもなく、「こんにちはでもなく」、父の口から発せられた前向きな言葉がとてもうれしかったです。
先生も手術の準備を1週間の間に進めてくれていたらしく、手術の話を詳しく伺うことが出来ました。そして、ゆっくりとした時間の中で手術の日を迎えました。

このページのトップに戻る

最後に

こうして、色々な出来事がありましたが、父は無事に三重大学病院の教授の先生に手術をしていただき、運が良くほとんどの癌を切除していただきました。

16年3月18日最後の治療のために三重大学第二外科に入院しました。そして、今日、3月24日無事に治療を終えることと思います。本当に長い長い、2年と10ヶ月。

父は今では、当たり前の様に一人で荷造りをし、一人で病院に出かけていきます。そして、東京でも、一人で病院に通院しています。私は、これが当たり前だと思っています。こんな、当たり前の生活がいつまでも長く続いてくれることが私の願いです。

そして父にとってはこれからが本当の病気との闘い始まりだと思っています。自己管理こそが最大の治療方法だと思います。私はそれを後ろから見守りたいと思います。もしまた、父が自分で対処することが出来なくなったとき、私は後ろから前に出て、手助けをしようと思っています。

そして、今日、11回目の三重に行きます。さっき母と話していました。11回三重に行って三重に宿泊したのは、5日間だけ。ハードでしたが、それなりに楽しかった三重への旅でした。

本当にたくさんの人のおかげで、父は元気になることが出来ました。ありがたいことと感謝しています。父には、人に自慢できる仕事があります。この仕事を通じてお世話になった皆様にご恩返しが出来ればと私は思っています。父もそのように思っていると信じています。これからも末永く父をよろしくお願いします。

toko

このページのトップに戻る

追記

この前を向いて歩いて行こうを書き終わった時、本当に治療は終わるものと私は、確信していました。でも、父の治療は終わりませんでした。
このあと検査の結果に良くないところが見つかり今現在も治療は続けています。
そして、今週から検査の為にいつものように一人で荷造りをして三重に父は出掛けております。
本当は、仕事が忙しいので病院に行きたくなかったらしいです。困った父です。

山あり、谷あり、人生は色々です。

病気になって、体を切り刻まれて父は痛い思いをしたと思うのですが、病気になって初めて見えたものが沢山あると思います。(わたしにも沢山のものが見えたのだから…)

まだまだ、父の治療は続きそうです。そして、三重大学病院の先生方とのご縁も続きそうです。わたしは、PMCのサイトを通じて少しでも諦めたくない人の応援が出来ればと思います。

2004.8.5toko

このページのトップに戻る
Copyright(C)2004 PMC rights reserved.